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耳塚

   耳塚  NO.32  2009.9.1

皆さん、お元気ですか!

9月の声を聞き、今年も後半に入りましたね。

月日が飛ぶようで、こわいような気さえ致しま~す

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私は2006年3月2日に、豊臣秀吉を祀る豊国神社を参拝後、
車で東へ数分の所にある朝鮮の方の耳塚を訪れました。
 
 耳塚は、秀吉が朝鮮出兵した1592年の文禄の役(兵力15万)と
1597年の慶長の役(兵力14万)で、配下の武将達が朝鮮の被害者
の鼻や耳をそぎ、塩漬けにして日本に持ち帰ったのを秀吉の命で
埋葬したものと云われます。
 
 私はここに佇み耳塚と供養塔を見たとき、暗く心が沈みました。

塚の上に五輪の石塔(供養塔)が立っていました。

いつの世も戦争はなくならず、人々は悲しみと苦しさを味わって
います。

被害場所が変わるだけで・・・。

 私は、朝鮮の被害者の方々のご冥福を心より祈らせていただき
ました。

 それでは、豊臣秀吉の朝鮮出兵のお話に入りますね。
 (参照:「詳説日本史」山川出版社)

 豊臣秀吉は1590年に小田原の北条氏を討って関東を平定、その際、
奥州に勢力をもっていた伊達政宗が小田原攻めに加わって秀吉に服属
したので、天下統一が完成しましたが、豊臣政権は秀吉の独裁色が強く、
朝鮮侵略はその弊害が現れたものと伝えられています。

 はじめ秀吉は、ゴアのポルトガル政庁・マニラのスペイン政庁・高山国
(台湾)などに対し、服属と入貢を求めましたが失敗。

 そこで、秀吉は1587年(天正15)に対馬の宗氏を通して、朝鮮に対して
入貢と明出兵の案内を求めましたが、朝鮮側に拒否されたため、文禄・
慶長の役(壬辰・丁酉の倭乱〔じんしん・ていゆうのわらん〕)を起こしたと
伝えられています。

 明に出兵するには大軍を運ぶ船舶が足りず、まず朝鮮に足場を築いて
から、明を朝鮮から陸伝いに侵略という構図だったのかもしれませんね。

 肥前の名護屋に本陣を敷き、1592年(文禄元)15万余の大軍を朝鮮に
派兵(文禄の役)しました。

 釜山(ぷさん)に上陸した日本軍は、鉄砲の威力や加藤清正・小西行長
などの活躍で漢城(現ソウル)や平壌(現ピョンヤン)を占領しましたが、
朝鮮の李舜臣(りしゅんしん)が率いる亀甲船の水軍や義兵(朝鮮の民衆)
などの抵抗、明の援軍などにより日本軍は補給路をたたれ、戦局は
しだいに不利になりました。 

 1593年の碧蹄館(へきていかん)の戦いをきっかけに停戦、小西行長が
朝鮮の宗主国明と講和交渉に臨むも失敗に終わったと云われます。

 1597年(慶長2)、日本軍は再び14万人余の大軍を朝鮮に派遣(慶長の役)
しましたが最初から苦戦を強いられ、翌年に秀吉が病死すると撤兵した
と伝えられています。

 日本軍の侵略は、朝鮮の人々に多くの被害と苦しみをもたらしました。

 そして、国内的には膨大な戦費と兵力を費やして、豊臣政権崩壊の
原因になったと云われています。

       

                 kyoto-06-mimizuka.jpg
               
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 ■ HP   「京都歴史散歩」 

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テーマ : 京都 - ジャンル : 旅行

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