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革堂

   革堂   NO.31 2009.8.17

お盆休みも終わり、今日から日常生活に戻りましたね。

暑さたけなわですので、お身体無理をしないでくださいね。

今回は革堂のお話をしますね

革堂は京都御所の東南、寺町通りに面して佇んでいましたが、歴史を感じさせる山門から
正面に唐破風屋根を持つ風格さと、革堂観音と書かれた赤い提灯を吊るした庶民的な姿の
二つがミックスした、とても親しみがある魅力的なお寺でした。

私は本堂前で本尊の千手観音様(秘仏1月17.18日開扉)に合掌させていただきました。

境内には都七福神まいりの一つになっている寿老人神堂や愛染堂(愛染明王)・妙見堂
(火難盗難除けの神 鎮宅霊符神)・加茂明神塔(五輪石塔)などもあるそうです。

行願寺は、平安中期の1004年(寛弘元)に行円上人自ら千手観音を彫り安置して、
一条小川の一条北辺堂跡に創建されたと云われていますが、度々の火災に遭い、江戸
中期の1708年(宝永5)の大火の後に現在地に移転したと云われています。

行円は山中で雌鹿を射止めたのを悔いて、仏門に入ったと伝えられていますが、革堂の名は、
常に鹿革の衣を着て「皮聖(」かわひじり)と呼ばれたことに由来するそうです。

革堂は民衆の信仰を集め、室町時代には上京の町堂となり、下京の町堂の六角堂とともに
民衆の集会の場ともなりました。

宝物館には、行円上人の革衣や幽霊の絵馬などがあるそうですよ。

        京都歴史散歩

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瑞泉寺

   蟹工船(かにこうせん)   No. 27  2009.2.27

厚生労働省は、昨年秋からの世界同時不況で今年の3月までに職を失
う 非正社員の数が約15万人、職を失う正社員が約1万人に達する見込
みだと今日発表いたしました。

社会的格差が拡がり、特に若い世代が将来に希望が持ちにくい現在の
状況は悲しいですね。

1929年(昭和4)のプロレタリア文学・小林多喜二著「蟹工船」がよく読ま
れているようです。

蟹工船はカニをとりながら、その缶詰をつくる船上で働く労働者と独占
資本家との労働問題を描き、葉山嘉樹「海に生くる人々」や徳永直(す
なお)「太陽のない街」と共にプロレタリア文学の代表作品と云われて
いますよ。

小林多喜二(1903~33)は、プロレタリア文学運動に参加して、共産党
員として活動中に特高警察に逮捕され拷問死したと伝えられています。

   
      瑞泉寺 

      2009-2-zuisenji.jpg


「瑞泉寺は木屋町三条高瀬川沿いに静かに佇んでいます。
   
江戸初期に高瀬川を開いた角倉了以が河川工事中に、荒廃した秀次
公の 塚を発見し、哀れんで秀次一族の菩提を弔うためにその川沿い
の木屋町に1611年(慶長16)に一宇を建立したのが瑞泉寺の由来と
伝えられています。

(瑞泉寺がある場所が、三条大橋西南の河原の秀次公の塚があった
地とも 云われています)

寺名は秀次公の法号「瑞泉寺殿高巌一峰道意」から付けられたそう
です。

豊臣秀次(1568~1595)公は、近江八幡43万石の城主となり、1591
年に 秀吉の長男鶴松の死後に秀吉の養子と関白になり、聚楽第に
居城していましたが、1593年に秀吉の次男秀頼誕生後は秀吉に疎
まれたと云われています。

1595年(文禄4)7月、秀次は秀吉に対して謀反の計画を立てたと云う
理由で秀吉により高野山に追放され、青巌寺で自刃させられたそう
です。
 
同年8月には、秀次の首が晒された三条大橋西南の河原で衆人の
見 守るなか、無残にも秀次の遺児・4人の若君と1人の姫君及び正
室・ 側室併せて39名が処刑されたと云われます。
  
秀次と妻子の居城だった聚楽第も、完成から僅か9年で破却されたと
云われます。
     
秀次公の謀反とは、秀次が諸大名に対して、自分に忠誠を尽くすよう
に命じた「連判状」の存在が露見したことにあると伝えられています。

また、秀次公に近かった諸大名達、伊達政宗・細川忠興・最上義光
(娘が秀次の側室)らも厳しい詮議を受けたそうです。

瑞泉寺境内には秀次公の墓石を囲むように、秀次の幼児や妻妾た
ちと殉死した家臣らの四十九基の五輪石塔があると云われます。

(参照 「瑞泉寺縁起 」慈舟山瑞泉寺) 

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高瀬川一之舟入

  ねぎらい    No.26   2009.2.26

私が月に一度お世話になる東京豊島区にあるカッティングサロンさん
は、 温厚な御主人と優しく愛らしい奥さまが経営されています

もちろん腕も一流で、研究熱心でもあります。

でも私がびっくりするのは、近所に住む80歳近い方などが、時おり
外出先から帰宅途中に顔を見せると「疲れたでしょう、休んでいった
ら」と、お茶を出して、 ねぎらうのです。

なかなか出来ないことですが、それがお互いごく自然なのですよね。

聞けば、お年寄り達(私もそうなので、こう呼ばせていただきます)は、
もっと便利なマンション等に住みたいと思いつつも、この近辺は玄関を
開けて一歩外へ出れば、親しく挨拶を交す人々がいて、なかなか転居
は出来ないとのこと。

私はここには、古き良き戦前戦後の人情が残っていて、いいなぁ・・・
と美容に行く度に思いますし、またオ-ナ-夫妻の暖かいお人柄に
ふれ、寂しいときでも心が明るくなるのです。


   高瀬川一之舟入

   2009-2-takasegawa.jpg

高瀬川は鴨川の西方木屋町通りに沿って流れる小さな川で、1611年
(慶長16)頃、 大堰川(おおい)の疎通などの数々の河川土木工事に成
功した豪商の角倉了以 (すみのくらりょうい1554-1614)が開発したと云
われています。

高瀬川は鴨川の水を引いて、鴨川に平行して京都二条から伏見を経て、
淀川に通じる運河です。
  
江戸時代全期にわたり、「高瀬舟」と呼ぶ川舟が薪炭などの物資を運び、
大坂と京都を結ぶ大事な台所を担っていました。

高瀬舟のことは、森鴎外の小説「高瀬舟」でも知られていますね。

通行する高瀬舟の荷物の上げ下ろしをする船溜所を舟入といい、舟入
は この「一之舟入」を初め、数ヵ所に設けられたと伝えられています。

盛時には日に百数十艘が大坂などの物資を運び入れたとのことです。
  
高瀬川沿いの木屋町通りには、江戸時代の長州藩・土佐藩邸跡碑な
どが立ち、高瀬川「一之舟入」のすぐ近くには、桂小五郎寓居跡「料
亭・幾松」 や坂本龍馬寓居跡(海援隊屯所)の「材木商・酢屋(すや)
などもありますよ。

「木屋町」(きやまち)という町名は、高瀬川沿い近辺には、材木業者が
多かったので付けられたとも云われています。
 
二条「一之舟入」から三条・四条辺りまでは、維新の志士たちが駆け抜
け た面影をしのべ、木屋町のしっとりとした風情と相まってかなり魅力
的ですよ。
 
私は2005年11月に坂本龍馬(1835-67)ゆかりの「酢屋」で木の湯呑み
を買い ましたが、今もその湯呑みでお茶を飲みながらときどき高瀬川
沿いの情緒を味わっております。

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■  日夏もえ子著 「京都の風情 嵐山の魅力」


 


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