スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

大雲院

ここ1週間ほど、子供の頃をしきりに思い出すのですよね

テレビ局から私の父・映画監督の日夏英太郎に関するインタ
ビュ-を受けたせいでしょうか。

あの頃の自分と向き合わなければならなくなってしまいました。
(辛いことはあまり思い出したくなかったけれど・・・)

父は私が生まれてすぐにインドネシアに出征し、戦後も戻らな
かった為、母一人子ひとりで育ちました(私の兄は10歳で溺死)。

私は17歳の時、病で最愛の母を失った時は、絶望感にとらわれ
ました。

なんとか乗り越えられたのは、高校3年になっていたからでしょうか

でも小学校時代は、わんぱくぶりを発揮して、個性ある友達に恵まれ
ほんとうに楽しかった!

戦後そんなに経ってなく、校舎も足りないので、1・2生のころは3部授業
(1・2年生の次に3・4年生、次に授業を受けるのは5・6年生という具合)
を受けました。

家に帰っても主に年下の友達がいっぱいいて、4~5人が2列に向き
合って「あんたがたどこさ、肥後さ熊本さ」などと歌いながら自分の
列に加えたい相手方の友達の名前を呼んだり、またメンコ、カン蹴り、
かくれんぼ等をして夕方まで遊びました


時々、白い髭をはやしたおじいさんが来て紙芝居を見せてくれるのが
楽しみでした。

あ、長くなってしまいました。

また、小学校時代の話はいつかしますね!

 大雲院

大雲院は円山公園の南西にあり、しっとりとした石畳の小路が高台寺・
圓徳院などの名刹まで続いています。

まことに京都らしい文化の香りが漂う界隈です。

大雲院は祇園祭りの鉾を模した高さ36メートルの祇園閣がある
ことでも知られています(大正期の財閥・大倉喜八郎別邸の展望台)

1587年(天正15)に正親町天皇(在位1557-86 おおぎまち)の勅命
により、貞安上人が織田信長・信忠親子の菩提を弔うために大雲
院を建立したと伝えられていますよ。

信忠公(信長の長男)の法名大雲院殿三品羽林仙厳大居士に因ん
で大雲院と名付けられたと云われます。

祇園閣の裏手に織田信長・信忠公の碑と石川五右衛門の墓があります。

五右衛門の墓石の角はなく、後世の人たちが「貴族、金持ちから大判・
小判を奪って貧しい人々にばら撒いた」という五右衛門伝説にあやかり
たいとかけらを持ち去ったとも云われています。

 辞世の句  石川は浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ

 石川五右衛門の戒名 「融仙院良岳寿感禅定門」 (10字)

  日夏もえ子著 「京都の風情 嵯峨野物語」

              
    2009-2-daiunin.jpg









スポンサーサイト

テーマ : 京都 - ジャンル : 旅行

圓徳院(高台寺塔頭)

今日はこのブログを掲載後、私の本拠地であるまぐまぐの
「もっと知りたい京都 苔寺」(95号)を書き始めなければと
思ってはいるのですが・・・。

2月18日(水)が発行予定日なので~す

今日2月15日(日)のNHKテレビ番組は魅力的なのですよね。

8時から大河ドラマ「天地人」を観て、続いて9時からBS11で
ペ・ヨンジュン主演の「太王四神記」を観たいし、果てさて困ったな

日曜日は、こうして心の葛藤が続くのでございま~す。

  圓徳院

圓徳院は風情あるねねの道(石畳の道)を挟んで高台寺の前に
あります。

圓徳院は豊臣秀吉夫人の北政所ねねの実家木下家の菩提寺で、
ねね様が余生を送ったことでも知られています。

伏見城の北政所化粧御殿から移したという豪華な石組みの方丈前
北庭は有名ですよ。

また、本堂の桐紋の襖に描かれた長谷川等伯の障壁画(重文)も桃山
文化を表現していると云われています。

 ■ メルマガ 「もっと知りたい京都」 


             2009-2-entokuin.jpg






テーマ : 京都 - ジャンル : 旅行

高台寺(ねねの寺)

ジャカルタ近郊のプタンブラン墓地に私の父の日夏英太郎が眠って
います。

平成16年(2004)11月に始めてお墓参りをしてから、4年が経ちました

もう1度行きたいと思いながら、家にミニチュアダックスの老犬(ジュニ
ア-ル)がいますので海外に出かけるのは難しい状況なので、諦めて
いましたが・・・。

それが近年、私の息子がサラリ-マンをやめて、自分の会社を経営する
ようになり仕事でインドネシアに行く機会がもてるようになりました。

昨年12月にも息子が日夏英太郎のお墓参りをしてくれ、今年もプタン
ブランに詣でてくれそうで何より父が喜んでいてくれるのではと想うと、
心がなごむ今日このごろです

   高台寺

東山の山麓、清水寺の北西にある高台寺は、1606年(慶長11)に
豊臣秀吉夫人のねね・北政所(出家して高台院)が夫の菩提を弔う
ために開創したお寺と伝えられています。


造営にあたっては、当時の政治的配慮から徳川家康の多大な財政的
援助もあり、お寺は壮麗をきわめたということです。

たびたびの火災により多くの堂宇を失い、現在残っているのは開山堂、
秀吉と北政所をお祀りしている霊屋(おたまや)、利休の意匠による茶室
の傘亭・時雨亭、表門、観月台などで国の重要文化財に指定されています。

開山堂以外は伏見城の遺構と伝えられていますよ。
 
ねね様(北政所)は山内の住房で5年間の闘病後、還らぬ人となりました。

 ― 76才でした ―

遺骸は霊屋に埋葬されましたが、霊屋は内陣須弥壇に2つの厨子があり、
左右に秀吉と北政所の木造坐像を安置。
 
左の北政所像の地下約6メ-トルに、ねね様は埋葬されていると云われ
ます。

厨子扉と須弥壇の蒔絵装飾は、桃山時代の華麗な高台寺蒔絵として
知られていますよ。
 
ねね様は、秀吉の側室の淀君とは対照的な温順な女性だとも云われて
います。

1598年の秀吉の死後、徳川幕府の時代となり、1615年の豊臣氏の
滅亡・大坂城天守閣炎上をこの高台寺からどのような想いで眺められ
たのでしょうか。

 ■ 日夏もえ子著 「京都の風情 大覚寺慕情」
                 2009-2-koudaiji.jpg

 

 

テーマ : 京都 - ジャンル : 旅行

霊山護国神社 坂本龍馬像

 2月8日・12日と続いたテレビ局の私の父・映画監督の日夏英太郎
 に関する取材も済み、我が家は今日は静かな環境に戻りました

 ペットたちも自宅から別の場所に移動させねばなりませんでした
 ので 可哀そうなことをしたと思っています。

 放送は1つは4月下旬で、もう1本は6月初旬の予定ですので、
 近く なりましたら、このブログでもお知らせ致しますね

  
         京都霊山護国神社 坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像
  

  京都霊山護国神社は、東山三十六峰の二十七峰・霊山の麓にあり、
  清水寺から三年坂(三寧坂)・2年坂を下り右に曲がり霊山歴史館前を
  通り高台寺に向う途中にあります。

  参道は「維新の道」と呼ばれています。

  幕末維新の志士と日清戦争から第二次世界大戦の京都府出身の
  戦没者を祭っています。

  急な石段を上ると、霊山の西向き山腹に坂本龍馬と中岡慎太郎の
  墓がありました。

  その近くに堂々とした風貌の龍馬と慎太郎の銅像が建っていました。

  今も坂本龍馬(1835~67)は、幕末にあっての開明性とスケールの
  大きさにおいて人々を魅了してやみませんね 。

   龍馬語録 
      (姉の乙女に出した手紙の一説 から)

   「日本を今一度せんたくいたし申候」(もうしそうろう)

   ■  HP  「京都歴史散歩」

 
     2006-5-ryozan-ryoma-douzou.jpg

テーマ : 京都・奈良 - ジャンル : 旅行

清水寺 成就院

 昨日、某テレビ局のディレクタ-さんから、私の父・日夏英太郎に関する
 取材の申し出を受けました

 父は第二次世界大戦が始まる前後に日朝合作映画や、戦後のインドネシアで
 「天と地の間で」などの作品を監督したことでも知られています。

 ただ、私が生まれてすぐに日夏英太郎はインドネシアに出征し、戦後も日本に
 戻りませんでしたから、私は父のことはあまり知りませんので、母の花子に
 聞いた僅かながらの父親像をたぐり寄せるしか方法はないかも知れませんね。

 父の消息を知ったのは平成12年ごろ、父について記述した1冊の本
 「シネアスト許泳の昭和」(ほよん)を手にした時でしたから、まだ8年ぐらい
 にしかなっていません。

 日夏英太郎の足跡をたどってくださった作者に感謝するとともに、数年に1度は
 各地の映画祭やビデオ・テレビなどで映画人・日夏英太郎が採り上げられて
 いますので、ほんとうに有難いことと思っております。

 さあ、明日はお掃除でもして8日に備えるとしましょうか!
 
  清水寺成就院

 清水寺の塔頭(旧本坊)の成就院は本堂の北にあります。
 
 防災道路に面したなだらかな道は人影もなく、無縁仏さんが一同に
 集められ佇んでいました。

 表のお参りする人々の賑わいは、ここにはありませんでした。

 成就院は、幕末の勤皇僧として著名な月照上人(23歳で叔父蔵海
 上人の跡を継ぐ)と弟の信海上人が住持した所としても知られています。

 成就院前の一角には、月照上人・信海上人の歌碑と西郷隆盛の詩碑が
 建っていました(北総門の正面)。

 成就院は応仁の乱の兵火にあった清水寺を復興した願阿上人によって
  文明年間(1469-87)に創建されたと云われています。

   1629年(寛永6)に類焼し、現在の建物は1639年(寛永16)に東福門院
 (徳川和子・2代将軍秀忠の娘)の援助で再興されたと伝えられていますよ。

   兄の家光は清水寺堂塔を1633年(寛永10)に再建。

  また、成就院は、明治から大正・昭和と清水寺中興開山の大西良慶和士
( 1875-1983)が住坊とされ、早朝法話を開かれて多くの老若男女がその尊
 いお話に耳を傾けた場所でもありました。

  書院背後には、“月の庭”と賞される成就院庭園(国の名勝)が美しく開けて
  います。

  成就院庭園は 池泉観賞式の江戸時代初期を代表する庭園で、相阿弥
  作庭を小堀遠州が補修したという説と連歌師の松永貞徳が作庭したという
  2説があるそうです。

  庭園の面積は約1500平方メートルで、そう大きくはありませんが音羽山や
  高台寺山などを借景にして、山腹に1基の石灯籠を立て遠近感を強調して
  いると云われています。

 美しい池泉の西には、小島と中島とが左右に浮び、さらに橋が渡され
   築山があり、見事な石組みが配置されていました。

   池泉手前の豊臣秀吉寄進と伝えられる誰ガ袖手水鉢(たがそでちょうず
 ばち)、中島の蜻蛉灯籠(かげろう)・烏帽子岩、小島の籬島石(まがきじま)、
 池右端の手毬灯籠(てまり)などは、名品と伝えられていますよ。

    日夏もえ子著 「京都の風情 嵯峨野物語」

2009-2-kiyo-kahi.jpg 

テーマ : 京都 - ジャンル : 旅行

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。