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宝筐院
宝筐院 No.35 2009.12.7
今年もはや師走となりましたね。
社会状勢は厳しいですが、若い人が希望のもてる(就職)国であってほしいと
願っております。

私は2008年11月24日の午後12時ごろ、清凉寺(嵯峨釈迦堂)仁王門の西にある
宝筐院を訪れました。
宝筐院は嵯峨野を代表する紅葉の名所で、当日は雨も降っていましたが、
そう広くはない境内には、しっとりと雨に濡れた楓が美しい姿をみせていました。
宝筐院は室町幕府2代将軍足利義詮(よしあきら)の菩提寺で、その院号から
宝筐院と呼ばれます。
境内奥には、北朝足利義詮墓の宝篋印塔と、義詮が尊敬し、傍らに葬るよう
に遺言したと言われる南朝の武将・楠木正行(まさつら 楠木正成の長子)の
首塚(五重塔)が並んでいました。
■ 京都歴史散歩
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今年もはや師走となりましたね。
社会状勢は厳しいですが、若い人が希望のもてる(就職)国であってほしいと
願っております。

私は2008年11月24日の午後12時ごろ、清凉寺(嵯峨釈迦堂)仁王門の西にある
宝筐院を訪れました。
宝筐院は嵯峨野を代表する紅葉の名所で、当日は雨も降っていましたが、
そう広くはない境内には、しっとりと雨に濡れた楓が美しい姿をみせていました。
宝筐院は室町幕府2代将軍足利義詮(よしあきら)の菩提寺で、その院号から
宝筐院と呼ばれます。
境内奥には、北朝足利義詮墓の宝篋印塔と、義詮が尊敬し、傍らに葬るよう
に遺言したと言われる南朝の武将・楠木正行(まさつら 楠木正成の長子)の
首塚(五重塔)が並んでいました。
■ 京都歴史散歩
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車折神社 芸能神社
私の父は戦前、永田雅一氏率いる「新興キネマ」に一時期籍を置いて
いました。
新興キネマは太秦にあったようです(現・東映撮影所)
自宅は太秦か車折駅近辺にあったのではないかと推測しています。
父は1942年に陸軍報道班員としてインドネシアに出征したまま、帰国
しませんでした。
母も父のことはあまり私に語らず、43歳という若さで病にて亡くなりました。
家に残るアルバムには、父が撮影したと想われる嵐電・車折駅線路沿いの
幼少の頃の兄の写真があります。
その兄も10歳で亡くなりましたが、今日は私の家族を偲びながら綴らせて
いただきますね。
車折神社 芸能神社
車折神社の境内には、芸能の神様・天宇受売命(あめのうずめのみこと)を
祀る芸能神社があります。
古来より芸道上達を祈願する人に深く崇敬されていると云われます。
芸能人が奉納した朱の玉垣が並び華やかですよ。
(車折神社の社名は後嵯峨天皇(一説には亀山天皇)が大堰川に御幸の際、
社前で牛車の轅(ながえ)が折れてしまったので門前右側の石を車折の石と
呼んで車折大明神の号と正一位を贈られたことに由来するそうです)
■ 京都の風情 嵐山の魅力

いました。
新興キネマは太秦にあったようです(現・東映撮影所)
自宅は太秦か車折駅近辺にあったのではないかと推測しています。
父は1942年に陸軍報道班員としてインドネシアに出征したまま、帰国
しませんでした。
母も父のことはあまり私に語らず、43歳という若さで病にて亡くなりました。
家に残るアルバムには、父が撮影したと想われる嵐電・車折駅線路沿いの
幼少の頃の兄の写真があります。
その兄も10歳で亡くなりましたが、今日は私の家族を偲びながら綴らせて
いただきますね。
車折神社 芸能神社
車折神社の境内には、芸能の神様・天宇受売命(あめのうずめのみこと)を
祀る芸能神社があります。
古来より芸道上達を祈願する人に深く崇敬されていると云われます。
芸能人が奉納した朱の玉垣が並び華やかですよ。
(車折神社の社名は後嵯峨天皇(一説には亀山天皇)が大堰川に御幸の際、
社前で牛車の轅(ながえ)が折れてしまったので門前右側の石を車折の石と
呼んで車折大明神の号と正一位を贈られたことに由来するそうです)
■ 京都の風情 嵐山の魅力

渡月橋北畔 「琴きき橋跡碑
今日は比較的朝早い新幹線のぞみ号に乗って、京都取材に行ってまいり
ま~す
洛西にある苔寺さんの拝観予約がとれましたので、観てまいりますね
渡月橋北畔 「琴きき橋跡碑」
峰の嵐(嵐山)か 松風か 尋ぬる人の 琴の音(ね)か
駒(こま)引き止めて 立ち寄れば 爪音(つまおと)高き 想夫恋
宮中一の美人で琴の名手である小督局(こごうつぼね)は高倉天皇の
寵愛を受けていましたが、高倉天皇の中宮である徳子(後の建礼門院)の
父である平清盛の怒りを怖れ、嵯峨野に身を隠しました。
高倉天皇は部下の源仲国(みなもとのなかくに)に命じて嵯峨野に小督局を
探しにやります。
仲国が嵯峨野の嵐山を訪れたところ、高倉天皇を慕う小督局の
「想夫恋」の琴の激しい音が聞こえてきました。
事情を話して仲国は小督を宮中に連れ戻しました。
(渡月橋北畔から亀山公園へ行く途中、つぼね茶屋の裏に小さな五輪塔の
小督塚が立っています。女優の故浪花千恵子さんが供養されたとも云われて
いますよ)
■ 京都の風情 嵐山の魅力
ま~す

洛西にある苔寺さんの拝観予約がとれましたので、観てまいりますね

渡月橋北畔 「琴きき橋跡碑」
峰の嵐(嵐山)か 松風か 尋ぬる人の 琴の音(ね)か
駒(こま)引き止めて 立ち寄れば 爪音(つまおと)高き 想夫恋
宮中一の美人で琴の名手である小督局(こごうつぼね)は高倉天皇の
寵愛を受けていましたが、高倉天皇の中宮である徳子(後の建礼門院)の
父である平清盛の怒りを怖れ、嵯峨野に身を隠しました。
高倉天皇は部下の源仲国(みなもとのなかくに)に命じて嵯峨野に小督局を
探しにやります。
仲国が嵯峨野の嵐山を訪れたところ、高倉天皇を慕う小督局の
「想夫恋」の琴の激しい音が聞こえてきました。
事情を話して仲国は小督を宮中に連れ戻しました。
(渡月橋北畔から亀山公園へ行く途中、つぼね茶屋の裏に小さな五輪塔の
小督塚が立っています。女優の故浪花千恵子さんが供養されたとも云われて
いますよ)
■ 京都の風情 嵐山の魅力
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