実光院
皆様お元気でいらっしゃいますか!
2009年10月19日の東京国際映画祭での日夏英太郎二作品の上映が
無事済み、ほっとしている所です。
今は、マキノ雅弘自伝「映画渡世・天の巻」(平凡社)を読んでいますが、
戦前の映画の歴史が分ると共に、内容がすこぶる痛快ですので、没頭
しています。
映画好きの方にお薦めです。

私は2008年11月25日の午後12時ごろ、大原の三千院より奥にある来迎院、
音無の滝に足をのばし、引き返して紅葉の三千院を拝観後、三千院直近の
実光院を訪れました。
当日は、紅葉の見ごろでしたので、三千院は多くの人で混みあっていました
が、来迎院、音無の滝まで行く人は少なく、落葉の絨毯の道を歩かない方々
を「せっかく大原まで来て、もったいないナ」と私は感じた次第です。
実光院は天台宗の座主顕真僧正(56歳)が浄土宗の開祖法然上人(54歳)を
招き1186年(文治2)に専修念仏について議論をたたかわせた「大原問答」で
有名な勝林院の塔頭で、声明を修行する学僧の住む寺として建てられたと
云われています。
実光院の玄関を入ると、声明に使った楽器が色々ありました。
鳴らしてみると、それぞれが妙なる音がして、私はお経に節をつけて唱える
声明に、これらの音色が加わると、さぞ心が揺すられる、荘厳なものではな
いかと想像いたしました。
客殿の南側には庭園が広がり、私は散策してみましたが、とても落着いた
庭園で、鹿おどしもありましたよ。
秋から春まで咲き続ける清楚な不断桜が印象に残りました。

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宝泉院
皆様、お変わりありませんか!
間もなく、東京国際映画祭が開催されます。
私の父・日夏英太郎の2作品も上映されますので、是非観に
いらしてくださいませ。
ただ予約券は売り切れていますので、当日券を早めに行って
お買い求めくださいね。
2009年10月19日 シネマート六本木 14時スタート
東京国際映画祭

私は2008年3月11日の午後1時ごろ、三千院拝観後、三千院御殿門前の
通り(桜の馬場)の突きあたり(北)にある天台宗の前座主顕真僧正(56歳)が
浄土宗の開祖法然上人(54歳)を招き1186年(文治2)に専修念仏について
議論をたたかわせた「大原問答」で有名な勝林院の塔頭の宝泉院を訪れ
ました。
宝泉院は、勝林院本堂西側にありました。
山門を入ると、五葉の松(近江富士 宝楽園)が望めました。
樹齢500年余を数える富士山型で美しい容姿です(京都市登録天然記念物)。
高さ11メートル、枝張り南北11.5・東14メートル。
客殿の柱を額縁に見立てた、竹林を背景にした庭園(客殿西の盤桓園)は、
風情がありましたよ。
客殿の畳に座り、遠大な庭園を眺めながら“抹茶と菓子”で寛ぎました。
客殿の廊下の天井は、1600年(慶長5)、美濃関ヶ原で行われた家康(東軍)
と石田三成(西軍)の天下分け目の関ヶ原合戦の前に、家康が会津の上杉
景勝征討に向かった折り、伏見城を守った家康の忠臣、鳥居元忠ほか武将
達が石田三成の大軍に攻められ自刃した遺構の血天井になっていました。
徳川の軍の将兵の霊を慰め供養するための「桃山の血天井」は、鷹峯の
源光庵、三十三間堂近くの養源院などにもあります。
座敷には楽器(サヌカイトという石)があり、自由に鳴らせますので、体験する
のも楽しいですよ。
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■ 京都歴史散歩
耳塚
耳塚 NO.32 2009.9.1
皆さん、お元気ですか!
9月の声を聞き、今年も後半に入りましたね。
月日が飛ぶようで、こわいような気さえ致しま〜す
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私は2006年3月2日に、豊臣秀吉を祀る豊国神社を参拝後、
車で東へ数分の所にある朝鮮の方の耳塚を訪れました。
耳塚は、秀吉が朝鮮出兵した1592年の文禄の役(兵力15万)と
1597年の慶長の役(兵力14万)で、配下の武将達が朝鮮の被害者
の鼻や耳をそぎ、塩漬けにして日本に持ち帰ったのを秀吉の命で
埋葬したものと云われます。
私はここに佇み耳塚と供養塔を見たとき、暗く心が沈みました。
塚の上に五輪の石塔(供養塔)が立っていました。
いつの世も戦争はなくならず、人々は悲しみと苦しさを味わって
います。
被害場所が変わるだけで・・・。
私は、朝鮮の被害者の方々のご冥福を心より祈らせていただき
ました。
それでは、豊臣秀吉の朝鮮出兵のお話に入りますね。
(参照:「詳説日本史」山川出版社)
豊臣秀吉は1590年に小田原の北条氏を討って関東を平定、その際、
奥州に勢力をもっていた伊達政宗が小田原攻めに加わって秀吉に服属
したので、天下統一が完成しましたが、豊臣政権は秀吉の独裁色が強く、
朝鮮侵略はその弊害が現れたものと伝えられています。
はじめ秀吉は、ゴアのポルトガル政庁・マニラのスペイン政庁・高山国
(台湾)などに対し、服属と入貢を求めましたが失敗。
そこで、秀吉は1587年(天正15)に対馬の宗氏を通して、朝鮮に対して
入貢と明出兵の案内を求めましたが、朝鮮側に拒否されたため、文禄・
慶長の役(壬辰・丁酉の倭乱〔じんしん・ていゆうのわらん〕)を起こしたと
伝えられています。
明に出兵するには大軍を運ぶ船舶が足りず、まず朝鮮に足場を築いて
から、明を朝鮮から陸伝いに侵略という構図だったのかもしれませんね。
肥前の名護屋に本陣を敷き、1592年(文禄元)15万余の大軍を朝鮮に
派兵(文禄の役)しました。
釜山(ぷさん)に上陸した日本軍は、鉄砲の威力や加藤清正・小西行長
などの活躍で漢城(現ソウル)や平壌(現ピョンヤン)を占領しましたが、
朝鮮の李舜臣(りしゅんしん)が率いる亀甲船の水軍や義兵(朝鮮の民衆)
などの抵抗、明の援軍などにより日本軍は補給路をたたれ、戦局は
しだいに不利になりました。
1593年の碧蹄館(へきていかん)の戦いをきっかけに停戦、小西行長が
朝鮮の宗主国明と講和交渉に臨むも失敗に終わったと云われます。
1597年(慶長2)、日本軍は再び14万人余の大軍を朝鮮に派遣(慶長の役)
しましたが最初から苦戦を強いられ、翌年に秀吉が病死すると撤兵した
と伝えられています。
日本軍の侵略は、朝鮮の人々に多くの被害と苦しみをもたらしました。
そして、国内的には膨大な戦費と兵力を費やして、豊臣政権崩壊の
原因になったと云われています。
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■ HP 「京都歴史散歩」
革堂
お盆休みも終わり、今日から日常生活に戻りましたね。
暑さたけなわですので、お身体無理をしないでくださいね。
今回は革堂のお話をしますね

革堂は京都御所の東南、寺町通りに面して佇んでいましたが、歴史を感じさせる山門から
正面に唐破風屋根を持つ風格さと、革堂観音と書かれた赤い提灯を吊るした庶民的な姿の
二つがミックスした、とても親しみがある魅力的なお寺でした。
私は本堂前で本尊の千手観音様(秘仏1月17.18日開扉)に合掌させていただきました。
境内には都七福神まいりの一つになっている寿老人神堂や愛染堂(愛染明王)・妙見堂
(火難盗難除けの神 鎮宅霊符神)・加茂明神塔(五輪石塔)などもあるそうです。
行願寺は、平安中期の1004年(寛弘元)に行円上人自ら千手観音を彫り安置して、
一条小川の一条北辺堂跡に創建されたと云われていますが、度々の火災に遭い、江戸
中期の1708年(宝永5)の大火の後に現在地に移転したと云われています。
行円は山中で雌鹿を射止めたのを悔いて、仏門に入ったと伝えられていますが、革堂の名は、
常に鹿革の衣を着て「皮聖(」かわひじり)と呼ばれたことに由来するそうです。
革堂は民衆の信仰を集め、室町時代には上京の町堂となり、下京の町堂の六角堂とともに
民衆の集会の場ともなりました。
宝物館には、行円上人の革衣や幽霊の絵馬などがあるそうですよ。
京都歴史散歩

今回は戦前に時代劇の第一次黄金期を担った松竹下加茂撮影所をご紹介いたしますね。
松竹京都下加茂撮影所は、歴史ある下鴨神社から北西の府立植物園へ
向う加茂川堤の内側の風光明媚な下鴨宮崎町の一角にありました。(現下鴨小学校並び)
当時の松竹下加茂撮影所は、林長二郎(長谷川一夫)・高田浩吉・坂東好太郎の三代スタ−を
擁し、監督に衣笠貞之助・二川文太郎・秋山耕作、脚本に水門王吉・柳川眞一・木村富士夫・
藤井滋司、撮影に森尾鉄郎氏などそうそうたるメンバ−が勢揃いして、無声映画からト−キー
に切替わる頃の時代劇映画の黄金期を担っていました。
1931年(昭和6)に満州事変が始まり、日本は軍国主義の道をひた走っていました。
人々は、そんななか映画・ラジオ・歌謡曲・学生野球観戦などに娯楽を見出していました。
映画も最初の全盛時代と云われています。
私の父・日夏英太郎も下加茂撮影所で、助監督・シナリオライタ−として働いていました。
マキノ映画の解散後、松竹に移籍できた喜びを「洛東雑記」で語っていますが、下加茂撮影所の
様子を想像していただけたら嬉しいです。
『洛東雑記』 (映画雑誌「下加茂」1931年11月 号)
「秋! 洛東・加茂の堤に月見草高く咲き乱れ、はろばろとひろがったすがゝしい層雲の
蒼ッぽい構図をハスに切って、スタジオのトタン屋根が、シンシンと蒼白い月光に浸されている。
その屋根の下で、煌々たるライトを浴びたスタジオマンの姿が、バルヴオの冷たい金属性の
音の中に溶けてゆく。
加茂河原の水は、とまる事を知らずして永久に流れるかの如く、そして真白な水瀬の
心よき韻律は、松竹の人となった僕への印象深きプレリユ−ドだ。
しかも、なごやかな此のスタジオの愛情のなかで、人は怒り、人は泣き、そして人は笑う」




